東京高等裁判所 昭和39年(行ケ)150号 判決 1967年2月14日
原告 小島利行
被告 高等海難審判庁長官
補助参加人 加藤恵美夫 外一名
主文
高等海難審判庁が、同庁昭和三八年第二審第三八号機船りつちもんど丸機船ときわ丸衝突事件について、昭和三九年九月二四日言渡した裁決の主文第一項の取消を求める原告の訴えを却下する。
右裁決の主文第二項を取消す。
訴訟費用は、これを三分し、その一を原告、その余を被告の負担とする。
事実
第一請求の趣旨
原告訴訟代理人らは、「高等海難審判庁が同庁昭和三八年第二審第三八号機船りつちもんど丸機船ときわ丸衝突事件につき、原告を受審人として昭和三九年九月二四日に言渡した裁決を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求めると申立てたた。
第二請求の原因
原告訴訟代理人らは、請求の原因として次のように述べた。
一、原告は甲種船長の海技免状を有するところ、昭和三八年二月二六日神戸港外において、原告が船長として乗組執職中の機船りつちもんど丸(総トン数九、五四七トン)と機船ときわ丸(総トン数二三八トン)とが衝突し、ときわ丸が沈没し、りつちもんど丸に損傷を蒙り、ときわ丸に乗船中の船客及び乗組員が死亡し又は傷害を受けた。
二、右衝突事件につき、高等海難審判庁は第二審として、りつちもんど丸船長小島利行(甲種船長免状受有、原告)、同二等航海士青野誠一(甲種一等航海士免状受有)及びときわ丸船長加藤恵美夫(乙種二等航海士免状受有、補助参加人)をそれぞれ受審人とし、ときわ丸甲板員三原義春(海技免状なし、補助参加人)を指定海難関係人として、昭和三九年九月二四日、「本件衝突は、主として受審人小島利行の運航に関する職務上の過失に因つて発生したが、ときわ丸航海士太居一男及び受審人加藤恵美夫の運行に関する各職務上の過失もその一因をなすものである。小島利行の甲種船長の業務を三箇月停止する。加藤恵美夫を戒告する。」との裁決を言渡した。右裁決の理由の要旨は次のとおりである。
りつちもんど丸は、昭和三八年二月二六日午前零時三〇分神戸港第三突堤M岸壁を発し、名古屋にいたる航行の途、離岸後受審人小島利行は、右舷に回頭し、神戸港第一防波堤東燈台を正船首よりわずかに左舷に望みながら、第一航路をたどつて進行し、同時五四分ごろ一六〇度(直方位、以下三六〇度分法によるものは真方位、他は磁針方位である。)の針路で、第一航路防波堤入口のほぼ中央を通過し、機関を一時間約一四海里(回転数毎分約八〇)の港内全速力とし、ついで友ケ島水道に向かう二〇七度の針路とするため右舵を令し、出港部署を解き、同時五六分ごろ機関用意を解除し、やがて予定の針路に向くころ、前路にあたり機附帆船らしい船の紅燈が見えたので、これを避けるため同時五七分ごろいつたん二一〇度の針路とし、同紅燈が左舷にかわる見込がつき、同一時少し前和田岬燈台から一五四度二、一〇〇メートルばかりのところで、針路を二〇七度に定め、一時間一七海里ばかりの全速力で進行した。その当時船橋にいた小島受審人は、当時第一、第二及び第三の各倉口のデリツクブームが立てたままであり、また、ともあしで船首が高くなつており、前路の看視の妨げとなる状態であつたが、船橋前面のガラス窓を全部しめたままで、特に見張員を配置することもなく、船橋前部の中央にあるジヤイロレピーターの右側に立つて操船の指揮にあたつていたところ、同時二分ごろ左舷船首約二二度一海里半ばかりのところに、一機附帆船の白緑二燈を認め、やがて相手船において本船の進路を避けるものと考えていた。一方、そのころ受審人青野誠一は、当直につくため昇橋し、ジヤイロコンパス、コースレコーダーなどの作動状況を調べ、海図にあたつて針路を確かめ、レーダーにより前路に四、五隻の船の映像を認めたが、別に気にもとめず、小島受審人に報告しないまま、操舵室の前部右端にいたり、ガラス窓越しに見張について続航中であつた。りつちもんど丸は同時四分ごろ右舷船首約三〇度一、五〇〇メートルばかりのところに、ときわ丸が白緑二燈を表示しながら来航しており、両船が原針路のまま続航すれば、互いに右舷を対して無難に航過できる態勢にあつたが、小島、青野両受審人ともこれに気づかず、小島受審人は、前示機附帆船が避航する気配がないので、同時刻長音一回を鳴らし、右舵を命じたが、青野受審人は、このときはじめて前記機附帆船の燈火に気づいた。このようにして、右舷に回頭をつづけているうち、同時六分ごろ小島受審人は、左舷船首間近かに迫つたときわ丸の白緑二燈をはじめて認め、衝突の危険を感じ、微速力前進、停止、右舵一杯を命じ、短音一回を吹鳴し、ついで全速力後退に令したが、機関が後退にかからないうち、同時六分半和田岬燈台から一九六度四、三〇〇メートルばかりのところにおいて、二九二度を向いたりつちもんど丸の船首は、ときわ丸の右舷側船尾から四メートルばかり前方にほぼ直角に衝突した。当時天候は半晴で、北東の至軽風が吹き、潮候は下げ潮の末期で、衝突地点附近では微弱な北西流であつた。また、ときわ丸は、鳴門、阪神間の定期旅客船で、同月二五日午後八時一〇分鳴門港桑島岸壁を発し、神戸にいたる航行の途、同時五〇分ごろ淡路島潮埼沖合で、受審人加藤恵美夫は、一等航海士村上守(丙種船長免状受有、三九才、死亡)に当直をゆだね、操舵室後方の自室に退いて休息した。同一〇時三〇分ごろ、由良瀬戸のほぼ中央を通過したとき、航海士太居一男(甲板長として乗り組み乙種二等航海士免状受有、三五才、死亡)は、村上航海士から当直を引き継ぎ、加藤受審人に報告しないまま従前の例にならい、北東微北の針路とし、指定海難関係人三原義春と一〇分ないし一五分ごとに操舵を交替し、操舵していない者が船橋で見張にあたりながら、一時間八海里半ばかりの全速力で進行した。翌二六日午前零時五五分ごろ三原指定海難関係人は、太居航海士に前記針路を引き継いで操舵をゆずり、船橋の右舷側にある重油ストーブの前のベンチに腰をかけて見張にあたつた。同一時ごろ右舷船首約一点二・四海里ばかりのところに、りつちもんど丸が白白緑三燈を示して来航しつつあつて、同時五分少し前紅燈をも示すようになつたが、三原指定海難関係人は、これに気づかず、同時五分頃右舷船首約四点九〇〇メートルばかりのところに、りつちもんど丸の白白紅三燈をはじめて認め、その旨を太居航海士に報告した。三原指定海難関係人は、太居航海士がうなずいたのみで転舵する模様がないので、不安を感じ、かわるかかわるかと同航海士に呼びかけているうち、同時六分ごろ右舷船首約五点三〇〇メートルばかりのところに相手船が迫り、このまゝでは衝突の危険があり、かつ、そのとき相手船の短音一回を聞いたが、太居航海士は、機関も舵も使用することなく、三原指定海難関係人に対し、投光機を点滅するように命じ、三原指定海難関係人が船橋右舷側の屋上に備えつけられ、船橋内からハンドルで操作できるようになつている投光機を相手船に向け点滅していたところ、両船が急速に接近し、太居航海士は、左舵をとつたが、ほぼ原針路、全速力のまま、前示のとおり衝突した。自室で休息中の加藤受審人は、りつちもんど丸の短音一回を聞き、急いで右舷側の甲板に出て見たところ、すでに衝突寸前でどうするいとまもなかつた。衝突と同時にときわ丸は、左舷に二~三〇度傾斜し、甲板積貨物がほとんど海中に転落し、船尾部が圧壊して機関の運転は止まり、船内の浸水は激しく、傾斜は間もなく一〇度ばかりに回復したが、電池による点燈設備がなかつたので、機関の停止にともなつて航海燈をはじめ船内の電燈はいつせいに消え、旅客に対する放送設備も全く用をなさなくなつた。加藤受審人は、一等旅客室の出入口から出て来た者に向かい、旅客を誘導し救命艇を用意するように叫び、自から第一号艇に近づき、くぎ付けしてあつたおおいの一部を取りはずし、救命浮器の固縛を解き、ついで船橋にはいり、二、三の乗組員とともに船長室右舷側の甲板上や船橋内において信号紅焔をたき、また、救命焔はかんの上下に金槌で穴をうがち、そのまま海中に投下した。加藤受審人は、船員法による非常配置表を定めておかず、操練については、かつて、防火訓練を一回行つたに過ぎなかつた。かくて、電燈が消えると船内は暗黒となり、旅客は、誘導する者もなく、手探りで自ら脱出しなければならない状況となり、救命胴衣を持ち出すこともできず、かろうじて短艇甲板へ脱出してきた者は、旅客も乗組員も右舷側の第一号艇へ集まり、そのうち次第に船尾が沈下し、第一号艇のところまで水がきて同艇は自然に浮き、最初から同艇の降下準備に従事していた三原指定海難関係人は、旅客や乗組員とともにこれに乗り込んだ。同時一三分ごろ、和田岬燈台から一九六度半四、三〇〇メートルばかりのところにおいて、ときわ丸は、船尾から沈没し、せつかく浮揚した第一号艇は、船底栓を差し込んでいなかつたため、浮揚後間もなく浸水のため転覆し、第二号艇は、本船の沈没にともない自然に浮揚したが、トタン板のおおいをしたままで乗艇者もなく漂流をつづけた。一方、小島受審人は、衝突すると直ちに機関を停止して船橋の右端に出たところ、右舷側二~三〇メートル隔てたところに、電燈が消え、船尾が低くなり左舷に傾斜したときわ丸の船影を認め、人の叫び声を聞き、沈没のおそれがあることを知つたが、相手船は本船の舷側に沿い船尾の方に過ぎ去つて行つた。そこで、小島受審人は、相手船に近づこうとしたが、機関を全速力後退にかけてもなお行き足が大きく、衡突地点まで引き返してくるのに時間がかかり、かつ、万一漂流者などがあればこれに危害を加える懸念があり、右舷にひとまわりして衝突地点に引き返す方がよいと考え、機関を微速力前進にかけ、総員起こし、救命艇用意を命じ、右舵を取つたまま続航した。自室で休息中の三等航海士能丸喜義及び一等航海士藤原修は、汽笛を聞くとともに機関の運転に異常を感じ、不審を抱いて直ちに昇橋したが、小島受審人は、すみやかに、両航海士に、レーダーにより他船のゆくえを追跡看視させたり、コンパスやレーダーにより船位を確認させたり、あるいは船橋に備えつけの救命焔を投下させたりせず、単に探照燈や投光器を点滅し、海面を照射させながら、機関を微速前進、あるいは停止に使用し、舵を中央に戻したり、右舵を取つたりして進行し、ひとまわりしてすみやかに相手船に近ずこうとする当初の意図にそわない行動をとり、同時一八分第五管区海上保安本部あて「午前一時七分ごろ北緯三四度三七分五東経一三五度一〇分二にて機帆船らしきものと衝突し、附近海面を捜索中」の旨を打電し、同時四九分緊急通信に切り替え、同部と連絡をとりながら捜索を続けたが、相手船や漂流物を発見するなど手がかりがつかめないまま、同時三二分和田岬から一九二度二、四〇〇メートルばかりの地点に投錨した。青野受審人は、小島受審人の命を受けて、投錨後直ちに第一号艇を降下し、投錨地点の南方附近を一時間余にわたり捜索したが、何物も発見できずに引き返し、その後も交替して引き続き午前五時半ごろまで捜索したが、りつちもんど丸側では、遂に何物も発見できず、捜索は徒労に終つた。衝突の結果、りつちもんど丸は、船首材とこれに接する右舷側外板に軽微な凹傷を生じたのみであつたが、ときわ丸は、衝突箇所がほとんど切断されるまでに圧壊して、前示のように沈没し、引田大五郎ほか三九人の旅客と村上航海士ほか六人の乗組員が死亡し、虫本敏春ほか二人の旅客が負傷した。
本件衡突は、海難審判法第二条第一号及び第二号に該当し、主として受審人小島利行が、夜間神戸港沖合を航行中、他船と互いに右舷を対して無難に航過できる態勢にある場合、見張不十分のため、他船の来航に気づかず、その前路に向け転舵進出し、かつ、衡突により相手船が沈没のおそれがあることを知りながら、これを見失つた場合、すみやかにレーダーにより他船のゆくえを追跡看視したり、船位を確認したり、救命焔を投下したりして、救助活動に万全を期すべきであつたのに、これを怠り、衝突現場に引き返す措置が当を得なかつた同人の運航に関する職務上の過失に因つて発生したが、ときわ丸航海士太居一男が、衝突の危険が切迫した場合、臨機の措置が緩漫であつた同人の運航に関する職務上の過失及び受審人加藤恵美夫が船員法による非常配置表を定めず、かつ、操練の実施不十分のため救助措置が適切に行なわれなかつた同人の運行に関する職務上の過失もその一因をなすものである。受審人青野誠一の所為は、船長補佐に欠けるきらいはあるが、強いて過失とは認めない。指定海難関係人三原義春の所為は、本件発生の原因とならない。
なお、右のうち、和田岬燈台は、本件事故発生後他に撤去、移転され、現在は存在しない。
三、しかしながら、本件海難発生の概要は、次のとおりである。すなわち、原告は、機船りつちもんど丸の船長として乗組執職し、同船の操船を指揮して神戸港を発し、友ケ島水道由良瀬戸に向かうべく二〇七度の真針路で進航中、左舷前方およそ一海里半に、おりから撫養港を発し神戸港に向うときわ丸の航海灯白緑各一個を初認し、その後原告は同船の進航模様に注意を払つていたが、方位が明確に変更せず衝突のおそれがあるので、針路速力を保持し、相手船側でりつちもんど丸の進路を避けるものと期待したが、その気配がなく両船が接近するので、相手船側の注意を喚起し、避航を促がすため長音一回を吹鳴したが、なおも避航の気配なく両船衝突の危険が切迫したので、原告は右舵一杯機関全速後進を令したが及ばず、りつちもんど丸の船首がときわ丸の右舷後部に衝突し、ときわ丸は大破し、りつちもんど丸に軽微な損傷を生じ、両船は直ちに分離した。原告は暗闇の中で右舷後方に離れてゆく消灯したときわ丸の船体の後部を認めたが、間もなくこれを見失い、直ちに総員を呼集し、見張員を立て、いつでも救命艇を用いられるよう救命艇の降下用意を令し、相手船と遭遇するよう右旋回を続け、のちに投錨して救命艇を降下し、捜索に当つたが、ときわ丸は原告の予期に反した地点に向け惰力で進出して沈没し、同船の乗組員は同船船長の適切な指揮を受けることなく、また同船の船客は船長の指示又は船員の誘導を受けず、全船烏合の衆となり救命胴衣もつけず、それぞれ思いのままに避難に狂奔し、最も重要な船底の水密栓を差し忘れた一隻の救命艇に多数の者が殺到し、このため救命艇は浸水転覆するなど、船外に脱出した者もすべて寒冷の海中に投げ出され、ときわ丸側では救助を求めるために必要適切な手段方法も全くとらなかつたので、りつちもんど丸側見張員においてもこれを発見することができず、遂にときわ丸乗船中の多数の船客乗組員が死亡し、或る者が傷害を受けるに至つたものである。
右のごとく、本件衝突原因の基幹たる両船の航法関係は、海上衝突予防法第一九条所定のいわゆる横切関係の航法が適用される関係にあり、りつちもんど丸側においては針路速力を保持する義務を、またときわ丸側においてはりつちもんど丸の進路を避譲すべき義務を、それぞれ負い、りつちもんど丸側では保持義務を履行したが、ときわ丸側では避譲義務を全く履行しなかつたものであつて、両船ともそれぞれに課せられた義務を履践したならば、衝突を回避し安全に替り得る関係にあつた。このことは、原告が第一審の海難審判以来一貫して強く主張して来たところであつて、第一審における理事官の意見及び裁決、第二審における理事官の意見も一致してこれを認めたところである。
四、しかるに、高等海難審判庁においては、第一審と変らぬ証拠資料に基づきながら、突如として前記のごとく、原告がりつちもんど丸を操船して夜間神戸港沖を航行中、ときわ丸と互に右舷を対して無難に航過し得る態勢にある場合、見張不十分のためその来航に気付かず、左舷船首の一機附帆船を避けるために、ときわ丸の前路に向けて転舵進出し、かつ衝突により相手船が沈没のおそれがあることを知りながら、これを見失つた場合、救助活動に万全を期することを怠り、現場に引返えす措置に当を得なかつたものとし、これを前提として右裁決をするに至つた。右判断は実験則、経験則の適用を誤まり、採証の法則に違背して、重大な事実の誤認を冒し、注意義務の設定についても法規の解釈、適用の誤まりに陥つたものであるが、その誤まりは左記の諸点において殊に顕著である。すなわち、
(一) 右裁決は、りつちもんど丸の左舷船首にときわ丸でないとする架空の一機附帆船の存在を敢て認定したが、その存在を推認させる証拠資料は全くないのであるから、まことに驚ろくべき創作であるといわなければならない。
(二) りつちもんど丸は左舷船首に一機附帆船を認め、相手船が避航する気配がないので、長音一回を鳴らし右舵を命じ、全速力のまゝ二分間にわたり右方に旋回避航を続けたというのであるが、右舵発令の際における機附帆船との距離が記されていないから、果してどの程度切迫した危険があり、何程迂回する緊急の必要が存したのか一切知る由もないが、仮りに若干の危険があつたとしても、海上衝突予防法第一九条により針路速力の保持義務を負う一万トン級の航洋船であるりつちもんど丸が、意味不明の長音一回を吹鳴して右舵をとり、全速力のまゝ二分間にわたり右方に旋回避航を続けたというがごときは、極めて異常な事実であつて、合理的な根拠を示すことなく安易にかかる事実を認定することは許されない。
(三) 裁決によれば、原告も当直航海士も、りつちもんど丸の右舷船首から白緑二灯を表示して来航するときわ丸が、なんら障害物のない三〇度の方向一、五〇〇メートルの近距離に接近しているのに気付かず、左舷船首の一機附帆船を避けるため二分間にわたり右転を続けたが、ときわ丸を左舷船首に見るようになるまで、同船の灯火に気付かなかつたとしている。転針にあたり、その方向に障害物などがないかを一瞥する位の注意は、最下級の海技免状を受有する小型船船長と雖も敢て怠る者はいないことは、顕著な事実である。まして、毎時一七海里の全速力で進航中のりつちもんど丸を最高級免状受有者たる原告が自から運航しながら、船首の転向する方面を一切注目することなしに回頭を続ける筈はなく、そのような事実は断じてないのである。裁決は、りつちもんど丸のコースレコードの線上に現われた幾つかの特異点のうち、二九二度のところにあるものを衝突の際に生じたものと断定し、これをもつて、りつちもんど丸が原針路から八五度右に回頭してときわ丸に衝突したとの認定の論拠としているが、本件衝突によりコースレコードにコリジヨンポイントが現われるかどうか、現われるとしてどのような形で現われるかなどの点については、十分の吟味がなされていない。
上記のごとき認定事実は全く異常な事実であり、関係者の体験に基づく供述を排斥してまで敢てこのような異常な事実を認定するに至つたのは、証拠の取捨選択を誤まり、幾多反対の証拠を無視して右コースレコード上の二九二度の点を過大に評価した結果、重大な事実誤認に陥つたものである。
(四) さらに、原告の救助措置についても、裁決は、原告においてすみやかにレーダーにより他船の行方を追跡看視したり、船位を確認したり、救命焔を投下したりすべきであるのにこれを怠り、衝突現場へ引返えす措置が当を得なかつたことをもつて、過失に該当するとした。
しかしながら、衝突後レーダーによりときわ丸の動静を捉え得たものと速断することはできない。原告は多数の見張員を立て双眼鏡を用いて相手船の動静把握に努めたのであつて、若し相手船において有効な火焔信号を発したならば、直ちにその位置を確認し得てこれに近づくことができた筈である。レーダーを用いなかつたのを救助の怠りと断定するのは誤まりである。
また、原告は衝突時には船位の測定を行わなかつたが、それは、ときわ丸が全速力でりつちもんど丸の右舷後方へ航過したのを視認し、両船とも直ちに衝突位置を遠く離れたことを認識したため、船位の測得に重きを置かなかつたからである。その後、ときわ丸を捜索中に時折測定を行つた。これを非難することは条理に反する。
救命焔の投下をしなかつたことについても、これを非難するのは、衝突地点即沈没地点との誤まつた認定を前提とする結果論であつて、原告が衝突地点へ後退して引返えす措置に出なかつたのも、ときわ丸が神戸港方面に航走するのを見て救助の必要あるやを慮り、同船に出会することを予期して捜索を続けつつその方向に進航したからであつて、それは、衝突地点に引返えし、これを経由して他船の行方を追求するよりは、そのまゝ右転して目指す方面に向うのが捷径だからであつた。
原告は決して相手船の処置を責めるものではないが、相手船の措置に十全を得たならば、かかる惨時に至らなかつたものをと痛恨に堪えないところであつて、右のごとく原告の救助措置に非難さるべき廉はないのであるから、裁決が徒らに原告のみを責めるのに急で、当時の状況に照らし、条理上義務のないことに敢てその遂行を求め、原告を非難することは、法規の解釈適用を誤まつたものといわなければならない。
五、以上のとおり、被告の裁決は、予断をもつて証拠調をなした結果、経験則、採証法則に違背する誤まりを冒し、かつ、審理不尽の違法に陥つて、事実を誤認し、第一審の裁決と異なる判定をするに当つても十分な意見、弁解を述べる機会を与えることなく、ひいて法規の解釈適用をも誤まるに至つたものであつて、この違法は明白かつ重大なものである。
よつて、請求の趣旨に記載のとおりの判決を求める。
第三被告の答弁
被告指定代理人らは、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、請求原因に対する答弁として、次のように述べた。
一、第二の一及び二の事実は認める。
二、同三の事実は争う。原告が主張する初認の相手船はときわ丸ではなく、他の第三船である。
三、同四の事実のうち、被告が原告の主張するような趣旨の裁決をした事実は認めるが、その余の主張事実はすべて争う。
りつちもんど丸とときわ丸との両船の航法関係は、原告主張の裁決の認定どおりである。原告は見張を怠り、右舷船首から来航するときわ丸に気付かず、左舷船首に接近した第三船を避けるため、衝突の約二分半前針路を右転し、ときわ丸の前路に進出したものであつて、原告の針路を右転したことが衝突の原因であるから、原告の責任は明らかである。また救助措置についても原告主張の裁決の認定どおり、原告の過失は免がれないところであつて、右過失をも勘案して、原告の甲種船長の業務を三箇月停止したのは、相当の処分である。
原告の主張する裁決は相当であつて、なんらの瑕疵も存しないから、本訴請求は失当である。
第四証拠関係<省略>
理由
第一海難の原因を明らかにする裁決の取消を求める訴えの部分について
原告主張の請求原因事実のうち、第二の一及び二の事実は、いずれも当事者の間に争いがない。ところで原告は、高等海難審判庁が原告を受審人として言渡した右裁決の取消を求めるのであるが、右裁決のうち、「本件衝突は、主として受審人小島利行の運航に関する職務上の過失に因つて発生した」旨の部分は、海難審判法第四条第一項の規定による海難の原因を明らかにする裁決であると認められる。このような裁決は、文字どおり、海難原因を明らかにしたに止まつて、原告の権利行使を妨げ若しくはこれになんらかの義務を課するものではなく、また原告の過失を確定する効力も有せず、結局原告の権利義務に直接なんの関係もないものであるから、行政事件訴訟法にいわゆる処分には当らないものと解するを相当とする。従つて、他の法令に特段の規定も存しない以上、行政事件訴訟の一般原則に従い、原告は、右裁決に対して、その取消を求める訴えを提起することができず、裁判所もその請求原因の当否の判断に立ち入ることは許されない。この理は、たとへ、第二で判示するように、本件海難事件における原告の過失の存否に関する判断が右裁決のそれと異なる場合であつても、変らないものといわなければならない。よつて、原告の右原因裁決の取消を求める訴えの部分は、不適法として却下を免かれない。
第二懲戒の裁決の取消を求める原告の請求部分について
次に、原告のその余の請求部分について判断する。原告は、右裁決のうち「小島利行の甲種船長の業務を三箇月停止する。」旨の部分についても、その取消を求め、右裁決は、りつちもんど丸とときわ丸との両船の航法関係、従つて両船の衝突の原因について、及び原告の救助処置について、それぞれ認定を誤まつた違法があると主張するから、以下これらの諸点について、順次判断する。
一、両船の航法関係
(一) りつちもんど丸の針路模様
りつちもんど丸の針路模様について被告の主張するところは、本件裁決によれば、次のとおりである。すなわち、りつちもんど丸は、昭和三八年二月二六日午前一時少し前、和田岬燈台から一五四度二、一〇〇メートルばかりのところで、針路を二〇七度に定め、一時間一七海里ばかりの全速力で進行した。原告は船橋前部の中央にあるジヤイロレピーターの右側に立つて操船の指揮にあたつていたが、同時二分ごろ左舷船首約二二度一海里半ばかりのところに、一機附帆船の白緑二燈を認め、やがて相手船において本船の進路を避けるものと考えた。同時四分ごろ、原告は、右機附帆船が避航する気配がないので長音一回を鳴らし、右舵を命じ、右舷に回頭をつづけているうち、同時六分ごろ、左舷船首間近かに迫つたときわ丸の白緑二燈をはじめて認め、衝突の危険を感じ、微速力前進、停止、右舷一杯を命じ、短音一回を吹鳴し、ついで全速力後退に令したが、機関が後退にかからないうち、同時六分半和田岬燈台から一九六度四、三〇〇メートルばかりのところにおいて、二九二度を向いたりつちもんど丸の船首は、ときわ丸の右舷側船尾から四メートルばかり前方にほぼ直角に衝突したというのである。しかしながら、右時刻に、りつちもんど丸の左舷船首約二二度一海里半ばかりのところに、ときわ丸以外の一機附帆船が存在したとの事実については、被告の挙示するすべての証拠を検討しても、これを認めるに足りる適確な証拠は存しないものといわざるを得ない。なるほど、裁決が右事実認定の資料として掲げる、いずれも成立に争いのない甲第三号証の一五五、一五六(いずれも衝突事件報告書、乙第二〇号証に同じ)、同第一号証の五(理事官の小島利行に対する質問調書、乙第一号証に同じ)によれば、原告が事故発生直後に提出した神戸海運局に対する報告書には、午前一時二分ごろ左舷船首二点一・五海里ぐらいに白緑二燈を認めたとの記載があり、理事官の取調に対しても原告が同趣旨の供述をしていることを認めることができるけれども、右各記載及び供述部分は、前後を通じてみれば、右燈火を示した船舶が衝突した相手船であつて、原告はこれを機附帆船であるとばかり思つていたとの趣旨であることが明らかであるから、これをもつて前記被告主張の事実を認定する証拠とすることができないことはもちろんといわなければならない。また、いずれも成立に争いのない甲第一号証の六(理事官の青野誠一に対する質問調書、乙第二号証に同じ)及び同第六号証の七(第一審における青野誠一に対する質問調書、乙第二三号証の一部に同じ)の各記載によれば、りつちもんど丸の二等航海士青野誠一が、当直のため昇橋しレーダーをのぞいた際、前路に点在する船影らしいものが映つていたことを認めることができるけれども、右各証拠に成立に争いのない乙第三一号証(第二審における審判調書)中青野誠一の供述記載及び証人青野誠一の証言を併せ考えると、青野は、船橋に昇つてから見張りに立つ前各種機器の作動状況を点検した際に、極めて短時間の間、右のごとくレーダーをのぞいてそれが作動していることを確かめると同時に、前路四、五海里以上の距離に船影らしい映像が点在しているのを認めたに過ぎず、却つて、当時被告の主張する方位、距離にときわ丸以外の第三船に相当する映像は認めなかつたことが認められるから、右のごとく青野が前路に船の映像を認めたとの事実のみをもつて、前記被告主張の事実を認める証拠とすることができないことも、もちろんである。なお、この点に関し、証人松補正富の証言及びいずれも成立に争いのない乙第四一、四二号証(いずれも松浦正富の供述調書)の各記載によれば、ときわ丸と同一会社に所属し、同一航路の定期運航に従事していた姉妹船日海丸が、本件事故発生の当日神戸港を発し友ケ島水道に向け航行中、反航して神戸港に向うときわ丸に行き合つたが、日海丸に乗組み操船していた松浦正富は、ときわ丸に行合うまで、衝突現場附近においてときわ丸と同方向に航行中の船舶を認めなかつたことを認めることができるから、この事実をも考え併せるべきである。のみならず、りつちもんど丸は、左舷船首に一機附帆船を認め衝突の危険を避けるため、同時四分から同時六分ごろまで約二分間にわたり右舷回頭を続け、原告は同時六分ごろはじめて左舷船首間近に迫つたときわ丸を発見したというのであるが、右舷回頭を開始した当時、どの程度の危険が切迫していたか、そのような右舷回頭の措置をとる必要があつたかどうかなどの点については、被告の主張によつても、必らずしも明らかでない。この点に関して、成立に争いのない甲第一号証の七(理事官の武本雅晴に対する質問調書、乙第三号証に同じ)によれば、りつちもんど丸の操舵手武本雅晴は、理事官に対して、衝突までに四点前後右転したように思うと述べており、また、成立に争いのない甲第一号証の八(理事官の森惇に対する質問調書、乙第四号証に同じ)によれば、りつちもんど丸の当直二等機関士森惇は、理事官に対して、午前一時五分ごろ機関停止の命令があつたが、その一、二分前に機関の回転数が落ちたので変針したことが判つたと述べていることが、それぞれ認められるけれども、右各供述記載部分は、にわかに措信し難いところであつて、他に被告主張のごとく、原告がときわ丸に衝突する前に、約二分間にわたり右舷回頭を続けたとの事実についても、これを認めるに足りる適確な証拠は存しないし、十分なつとくのできる判示もなされていない。
右のごとく、原告が、ときわ丸との衝突前に、ときわ丸以外の一機附帆船を認め、これを避けるために、約二分間にわたつて右舷回頭を続けたとの事実は、被告主張の本件裁決における基本となる要点であつて、原告の責任の存否の判断に極めて重大な影響を及ぼすべき事実であるが、いずれも成立に争いのない乙第三二号証(第二審における審判調書)及び甲第二七号証(別件刑事事件の起訴状)によつて認められるごとく、本件海難審判における理事官の論告、原告に対する刑事事件における検察官の起訴事実にも、右のような事実はなんら主張もされていないところである。本件裁決が右のごとき事実を認定するにあたつては、さらに適確な証拠に基づき、首肯するに足りる十分な理由を示すべきであつたものというべく、疑わしきをもつて原告の責に帰することの許されないことはもちろんといわなければならない。従つて右主張事実について、これを認めるに足りる証拠の存しない以上、右主張事実とときわ丸の針路についての後記(二)に判示のとおりの本件裁決の誤まつた認定とが、原告の過失を判断するのに最も重要な内容をなすものであるから、被告の前記主張は、とうてい採用し難く、本件裁決は、すでにこの点において、不当であるといわざるを得ない。
さらに、本件裁決の認定した事実が唯一のものであるとは認められないことを明かにするために、二、三の点について、やや詳しく述べれば、次のとおりである。
(1) コースレコードの方位、時刻について
りつちもんど丸の使用したコースレコードには、時刻及び方位の度数にずれがあることは、原告においても明らかに争わないところ、成立に争いのない甲第二号証の一六(コースレコード、乙第一七号証の一に同じ、同号証の二は、その拡大写真)にコースレコード及びりつちもんど丸の各検証の結果を併せ考えると、右方位度数のずれは、記録紙が約一度に相当する目盛巾だけ右方に片寄つて装着されていたために生じたものと認められる。従つて、右コースレコードから読取られる方位度数に対して、第一、第三象限においては各一度を減じ、第二、第四象限においては各一度を加えたものが、実際の方位を示すものとなる。また、右甲第二号証の一六及び右コースレコードの検証の結果によれば、右記録紙の午前四時七分ごろまでは象限ペンの描く線が現われておらず、用紙の端末に「一五分間進み」との記載があることが認められ、右事実に、証人青野誠一、同能丸喜義の各証言、いずれも成立に争いのない乙第二六、二七号証及び同第三四号証(いずれも、第一審における各審判調書、甲第八号証の二、同号証の四及び同第一一号証の一、二は、いずれもその一部)中、青野誠一及び能丸喜義の各供述記載並びに丙第一号証(能丸喜義に対する尋問調書)の供述記載を併せ考えると、次の事実を認めることができる。すなわち、右コースレコードは、りつちもんど丸の出航直前に三等航海士能丸喜義が用紙の装着、計器の始動に当つたが、同人はその途中において他の用務があつたりしたために、用紙の片寄りを正し、時刻目盛とコースペンとを正確に合わせるよゆうを得られなかつたけれども次の入港時に調整すればよいと考えて、これを不正確なままに放置しておいた。二等航海士青野誠一は、発航後暫らくして右コースレコードに時間のずれがあることに気付いていたが、本件事故発生後の早朝神戸港外に停泊中能丸に対して右コースレコードの取外しを指示した際、時間のずれを正しく測定するように命じたところ、能丸は船橋の時計と照合してコースレコードが一五分間進んでいることを確認したうえ、これを取外して青野の許に持参し、このことを報告したので、青野はその場においてこれに「一五分間進み」と記載し、同人の署名を附記したものである。右の事実によれば、右コースレコードはりつちもんど丸の船橋に備付けられた時計に比較して約一五分間進んでいたものと認めるのが相当である。被告は、能丸航海士が交差方位をとり海図上に記入した時刻及びその時の針路並びに神戸港第一関門通過の時刻及び針路に関する能丸喜義及び原告の各供述から、右コースレコードは一七分間進んでいたものと主張しているけれども、右交差方位測定及び第一関門通過の各時刻、針路は、必ずしも正確なものとは認め難く、右各供述部分は、後に認定する事実に照して、にわかに措信し難いところであるから、これをもつて、前記認定を左右する資料とすることはできない。もつとも、前顕甲第一号証の六、いずれも成立に争いのない甲第二号証の一一(りつちもんど丸甲板部ベルブツク)及び同第六号証の五(第一審における小島利行に対する質問調書、乙第二二号証の一部に同じ)の各記載、前顕乙第三一号証中小島利行の供述記載を併せ考えると、神戸港第三突堤M岸壁に繋留中のりつちもんど丸が出航を開始したのは二六日午前零時三〇分であることが認められ、成立に争いのない甲第一七号証によれば、コースレコード上において同船が左回頭を開始した時刻は、同日午前零時四七分であるとされていることが認められるから、右事実によれば、コースレコードは船橋の時計に比較して一七分間進んでいたものと認めるべきがごとくである。しかしながら、成立に争いのない甲第二号証の一四(りつちもんど丸機関部ベルブツク)に前顕甲第二号証の一一を対比して考えると、機関部において微速後進を始めたのは、機関部ベルブツクの記載によれば、同日午前零時三〇分であるが、機関部の時計は船橋のそれに比較して約一分遅れていることが認められるから、りつちもんど丸が出港開始発令と同時に左回頭をはじめたものとも断じ難いところであるばかりでなく、右甲第一七号証の記載自体から明らかなごとく、コースレコード上、りつちもんど丸は、午前零時四七分には既に一度に相当する回頭を終つていることが認められ、これに前顕甲第二号証の一六を併せ考えると、コースレコード上においても同船は午前零時四七分以前に回頭を始めたものであることを窺うことができる。従つて、右の事実も、直ちに前記認定を左右する資料とするには足らないものといわざるを得ず、他に前記認定を覆えして被告主張の事実を肯認するに足りる証拠は存しない。
(2) 午前一時の船位について
前顕甲第一号証の五、同第六号証の五、乙第三一号証、成立に争いのない甲第一一号証の二(第一審における能丸喜義に対する質問調書)の各供述記載並びに証人能丸喜義の証言及び原告本人尋問の結果に、前顕甲第二号証の一一、同号証の一四及び同号証の一六、いずれも成立に争いのない同号証の一七(りつちもんど丸の使用海図、乙第一八号証に同じ)及び乙第三三号証並びにコースレコード及び海図の各検証の結果を併せ考えると、次の事実を認めることができる。すなわち、原告は、りつちもんど丸を操船指揮して、神戸港第一防波堤の東端の第一関門を通過するや、間もなく機関を全速力とし、出港部署を解き、午前零時五六分ごろ徐々に友ケ島水道に向う二〇七度の針路とするとともに、機関用意を解除した。やがて予定の針路に向くころ、前路に機附帆船らしい船の紅燈を認めたので、これを避けるためさらに二、三度右転し、同時五九分ごろ二一〇度の針路とし暫らく続航した。他方三等航海士能丸喜義は、船橋にあつて見張に従事していたが、右舵二〇七度の号令を聞いた後、右舷船首に機附帆船らしい船の紅燈を認めたが、午前一時の船位を測定するため、海図室に行つて海図を一見したうえ、船の回頭が止まるころ舷側に行つて和田岬燈台と第一関門の燈火とにより交差方位を測定し、和田岬燈台から一五四度二、一〇〇メートルばかりの船位を測得し、これを海図に記入し終つて時計を見たら午前一時であつた。時計は船橋の時計に合わせてあつた。右の船位は海図上に引かれた予定針路二〇七度のコース線よりもやや東に寄つていたので、その旨を原告に報告した。原告は右報告を聞いたが、大した偏倚もないので、そのまま予定針路の二〇七度に戻すため、左舵を令し、午前一時二分前ごろ二〇七度に定針した。従つて、右のごとく能丸が測定した船位は二一〇度に定針した後、午前一時少し前ごろのものと認めるのが相当である。被告はこれを二一〇度からさらに二〇七度に戻して定針したころの船位であると主張し、前記原告本人及び能丸喜義の各供述記載を挙げるけれども、右各証拠によつて認められる事実は上記のとおりであつて、港内全速力一四ノツトから漸次一七ノツトに速力を上げつつあつたころのことでもあり、コースレコードの時刻が一五分進みと認められること、前記のとおりである以上、他に右認定を覆えして被告主張の右事実を認めるに足りる証拠はないから、右主張はとうてい採用し難いところとなさざるを得ない。
(3) ときわ丸初認の時刻、方位及び距離について
裁決によれば、原告は午前一時四分ごろ、右舷船首約三〇度一、五〇〇米ばかりのところに、ときわ丸が白緑二燈を表示しながら来航しているのに気付かず、左舷船首に認めた白緑二燈を示す一機附帆船が避航する気配がないので、同時刻長音一回を鳴らし、右舵を命じ、右舷に回頭をつづけているうち、同時六分ごろ、左舷船首間近かに迫つたときわ丸の白緑二燈をはじめて認めたというのである。しかしながら、後に認定するときわ丸の針路に従えば、右時刻にときわ丸がりつちもんど丸の右舷船首約三〇度一、五〇〇米ばかりの地点に白緑二燈を示して来航することは考えられないところであつて、ときわ丸以外の一機附帆船が存在した事実も、これを認めるに足りる証拠が存しないことは、前に判示したとおりである。また、この点に関して、前顕甲第一号証の五、同第六号証の五、乙第三一号証、成立に争いのない甲第七号証の二(第一審における小島利行に対する質問調書、乙第二四号証の一部に同じ)及び原告本人尋問の結果によれば、原告は、ときわ丸初認の時刻及び距離については、午前一時二分ごろ、約一・五海里であるといい、その方位については、三番船首の左舷側デリツクポストの少し左前で左舷船首約二点になると述べ、或いは一点半、或いは一四度、一五度と述べるなどいろいろに述べており、前顕甲第一号証の六、同第六号証の七及び乙第三一号証の各記載並びに証人青野誠一の証言によれば、原告とともに船橋に在つて前面右端で見張に立つていた二等航海士青野誠一も、衝突の二、三分前船長の言葉で左舷船首約二点四分の三海里位にときわ丸の白緑二燈を視認したといい、或いは一時四分ごろ見張に立つて直ぐ左舷船首約二点四分の三海里に見たといい、或いは、左舷側二番と三番のデリツクポストの中間前寄りで、左舷船首約一三度になるといい、或いは長声一発の吹鳴ではじめて気付いた、などいろいろに述べている。従つて、右各供述内容は、極めて区々に分れ、意識的に行為を加えた跡が窺われるばかりでなく、後に認定するときわ丸の針路によれば、右のような時刻に右のような方位、距離を保つて、りつちもんど丸の前面にときわ丸が来航することは考えられないことは、前記判示のとおりであるから、後に認定する両船の衝突の時刻、地点との関係位置からみても、右各供述部分についても、これを全面的には措信することはできないものといわざるを得ない。右の次第で、この点に関する被告の主張も、これを認めるに足りる証拠は存しないものというほかはない。
なお、前顕甲第一一号証の二、成立に争いのない同号証の二四(第一審における藤原修に対する質問調書、乙第三五号証の一部に同じ)に、前顕乙第三一号証、証人青野誠一の証言を併せ考えると、青野誠一が、昇橋したのち、ジヤイロコンパス、コースレコーダーなどの作動状況を調べ、海図にあたつて針路を確かめ、見張位置についたのは、午前一時二分よりもさらに後であると認められるから、この事実に前記各証拠を併せ、前記認定のりつちもんど丸の午前一時の船位及び前顕甲第二号証の一六(コースレコード)により認められるその針路模様、後に判示するときわ丸の針路模様などを参酌し、原告がときわ丸を初認した方位、時刻、距離などについて判断すると、後記のように、ときわ丸の針路模様の判断についての証拠資料が少いことから必ずしも明確な断定は困難であるが、左記のように判断するのが、合理的であると思われる。すなわち、原告は、二〇七度の針路で航行中、午前一時四分少し前ごろに、りつちもんど丸の左舷船首方向にあたり、転針して神戸港第二関門方向に向かうときわ丸の白緑二燈を認め、三〇トン程度の小型の機附帆船であると考えたが、その方位が殆んど変らないので、同時四分ごろ、左舷船首約七度ぐらい、距離およそ一、五〇〇メートル余りになつたころ、長音一回を吹鳴し、青野誠一は、このときはじめて右ときわ丸の燈火を視認した。そして、成立に争いのない乙第四〇号証(松浦正富の供述調書)、前顕乙第四一、四二号証に証人松浦正富の証言を併え考えると、前記日海丸が、反航するときわ丸と航過した際に、ときわ丸の船室の燈火が日海丸から望見されたことが認められるから、右のごとく、原告及び青野誠一が視認した白緑二燈がときわ丸のものであるとすれば、その船室の燈火も同時に視認した筈のものとすべきがごとくであるが、ときわ丸の船室及び船内通路に備えつけられた燈火が、左右の舷側の方向からは見ることができても、前方からは発見し難い構造となつていることは、成立に争いのない甲第七号証の四(第一審における質問調書、乙第二五号証の一部に同じ)中加藤恵美夫の供述記載によつてこれを認めることができるから、後に述べるときわ丸の態勢に照して、右原告及び青野誠一がこれらの燈火に気付かなかつたとしても、敢えて異とするに足りないから、右の事実も、前記のような推測を成立せしめるについて、妨げとなるものではないというべきである。
(二) ときわ丸の針路模様
(1) 被告の主張するところによれば、前記裁決に記載のとおり、ときわ丸は、由良瀬戸のほぼ中央を通過したのち、北東微北の針路で進航し、りつちもんど丸と衝突する直前に、左舵をとつたが、ほぼ原針路のままで衝突したというのである。しかしながら、海図(甲第二号証の一七及び乙第一八号証)上において、由良瀬戸の中央から発する北東微北の針路は、右海図の劃度盤に指定されている偏差を考慮するときは、―被告の主張と原裁決が共に右偏差を全く考慮にいれないで、ときわ丸の針路を認定していることは、了解できないところである―神戸港第一防波堤東端の白燈台からさらに東方約五五〇メートルばかりに出ることとなり、被告の主張する衝突地点の附近を通ることはないし、午前一時ごろ、ときわ丸の右舷船首約一点二・四海里ばかりのところに、りつちもんど丸が白白緑三燈を示して来航していたとする裁決の判断とも符合しない。また、成立に争いのない甲第一号証の九及び同号証の一四(いずれも、理事官の加藤恵美夫に対する質問調書、それぞれ、乙第五、六号証に同じ)、前顕甲第六号証の五及び乙第三一号証によれば、補助参加人加藤恵美夫の供述として、ときわ丸の羅針儀には、北に向いて約四分の一点西の自差があつた旨の記載があるから、仮りに、右自差をそのまま認めるとしても、これによれば、ときわ丸の針路は、前記第一防波堤の西端よりもさらに西方に向かうこととなり、前記裁決の判断と合致しないこととなる。そればかりでなく、右自差がある旨の加藤恵美夫の供述部分は、その自差算定の根拠も明確でないばかりでなく、次に述べるように、同人の他の供述部分と喰違いがあり、にわかに措信し難いところである。従つて、ときわ丸の針路模様に関する被告の右主張も、にわかに首肯し難いところとなさざるを得ない。
すなわち、前顕甲第一号証の九及び同号証の一四、甲第六号証の五及び同号証の七、同第七号証の四並びに乙第三一号証中の加藤恵美夫の各供述記載、いずれも成立に争いのない甲第一号証の一〇及び同号証の一五(いずれも、理事官の三原義春に対する質問調書、それぞれ、乙第七、八号証に同じ)、同第八号証の四(第一審における三原義春に対する質問調書、乙第二七号証の一部に同じ)、前顕甲第六号証の七並びに乙第三一号証中の三原義春の各供述記載、証人三原義春及び同加藤恵美夫の各証言を併せ考えると、次の事実を認めることができる。ときわ丸は、平常由良瀬戸のほぼ中央を通過したのち、北東微北の針路をとり、神戸港に近づいて地上の物標を視認できるようになつたのちは、罹針儀のみによらず、物標により針路を定めて第一防波堤の中央に向かい、入港の五分ないし一〇分位前に、第二関門の西側にある紅緑二燈台の中央と大丸航空燈台とを結ぶ線上に達するので、このときに転針して第二関門に入るのを常としていた。右の場合に、和田岬の燈台の光芒は、入港時よりも一時間以上前に発見でき、ついで第一関門、第二関門の順序で、それぞれの燈台の光芒が視認できるようになり、西方の淡路島江埼燈台の光が見える線に達したときに入港準備にかかり、休息中の船長を呼び起こすこととなつているが、それまでの間は風潮の影響で圧流されることも殆んどなく、当直の航海士が、右の例にならい、適宜操船していた。右の事実に照せば、前記羅針儀に自差があつたとする加藤恵美夫の供述記載部分は、たやすく措信し難いところであるといわなければならない。従つて、他になんの証拠もない以上、右自差は存在しなかつたものと認めるのを相当とする。
(2) また、りつちもんど丸を初認した点について、裁決は、三原義春が、午前一時五分ごろ、ときわ丸の右舷船首約四点、距離約半海里に、りつちもんど丸をはじめて認めたとしている。前顕甲第一号証の一〇、同号証の一五、同第六号証の七、同第八号証の四及び乙第三一号証中三原義春の各供述記載並びに証人三原義春の証言中には、それぞれ、右趣旨に添う記載及び供述が存するけれども、この点に関する同人の各供述は、相互に矛盾する点が多く、内容においても極めて捕捉、理解し難いところであつて、たやすく措信し難い。りつちもんど丸初認の方位、距離について、他に右主張を認めるに足りる証拠は存しないから、被告のこの点に関する主張も、たやすく採用し難いところとなさざるを得ない。
以上の次第で、ときわ丸の針路模様に関する被告の前記主張事実は、結局これを認める証拠がなく、右主張は、とうてい採用することができない。
(3) なお、ときわ丸の針路模様については、同船が沈没し、また、関係船員が死亡したりなどして、直接証拠が少なく、事実認定が困難であり、前顕乙第三二号証及び甲第二七号証によつて認められるごとく、本件海難審判の論告における理事官の判断、原告に対する刑事事件の起訴事実における検察官の判断など、公的機関の判断が、本件裁決の判断とも、それぞれ異つている理由の一も、この点に存するものと思われるが、前記各証拠を綜合し、りつちもんど丸の針路模様と大丸航空燈台及び和田岬燈台とを結ぶ線がほぼ八度四分の一である事実を参酌して、同船の針路模様を推測すれば、一応次のごとくであると考えられる。すなわち、ときわ丸は、由良瀬戸のほぼ中央を通過したのち、自差のない北東微北の針路で進航し、二六日午前一時三分から同時四分少し前ごろまでの間に、操船にあたつていた航海士太居一男は、北東微北の針路から北微東四分の一東の針路に転じ、同時四分ごろ、右舷船首約一二・五度ばかり、距離およそ一、五〇〇メートル余りに、主として紅燈を示しながら来航するりつちもんど丸を認める地点に進出した。もつとも、前顕乙第四〇号証ないし第四二号証の各供述記載及び証人松浦正富の供述中には、前記日海丸が、神戸港第二関門から南西微南四分の一南の針路で友ケ島水道に向かい時速八海里半で航行中、前記のとおり、反航するときわ丸に行き合つたが、その際、左舷対左舷で二〇〇メートルの距離をもつて航過した旨の供述があるけれども、そのいうところによれば、行き合つたのは、出港後約一時間を経過したころであるというのであつて、右速力をもつて約一時間進航したのちに、由良瀬戸の中央から北東微北の針路で航行するときわ丸と航過する距離は、前記海図上の針路によれば、二〇〇メートルとなることはないものと解され、夜間僅かに二〇〇メートルの距離をもつて、互いに変針も行うことなく航過したというのも、たやすく措信し難いところであるから、右供述も、前記のような推測をするうえに妨げとならないものということができる。
(三) 両船の衝突直前の操船状況と衝突の模様
さらに、また、裁決によれば、両船の衝突直前の操船状況及び衝突の模様は、次のとおりである。原告は、前路に一機附帆船を認め、避航する気配がないので、二六日午前一時四分ごろ長音一回を鳴らし、右舷を命じ、右舷に回頭を続けているうち、同時六分ごろ、左舷船首間近かに迫つたときわ丸の白緑二燈をはじめて認め、衝突の危険を感じ、微速力前進、停止、右舵一杯を命じ、短音一回を吹鳴し、ついで全速力後退に令したが、機関が後退にかからないうち、同時六分半和田岬燈台から一九六度四、三〇〇メートルばかりのところにおいて、二九二度を向いたりつちもんど丸の船首は、ときわ丸の右舷側船尾から四メートルばかり前方にほぼ直角に衝突した。他方ときわ丸は、航海士太居一男が操舵にあたり、北東微北の針路で進航中、同一時ごろ右舷船首約一点二・四海里ばかりのところに、りつちもんど丸が白白緑三燈を示して来航しつつあつて、同時五分少し前に紅燈をも示すようになつたが、見張にあたつていた三原義春は、これに気づかず、同時五分ごろ右舷船首約四点九〇〇メートルばかりのところに、りつちもんど丸の白白紅三燈をはじめて認め、その旨を太居航海士に報告した。同時六分ごろ右舷船首約五点三〇〇メートルばかりのところに相手船が迫り、このままでは衝突の危険があり、かつ、そのとき相手船の短音一回を聞いたが、太居航海士は機関も舵も使用することなく、三原に対し投光器を点滅するように命じ、同人は相手船に向けてこれを点滅していたところ、両船は急速に接近し、太居航海士は、左舵をとつたが、ほぼ原針路、全速力のまま、前示のとおり衝突し、ときわ丸は、同時一三分ごろ和田岬燈台から一九六度半四、三〇〇メートルばかりのところにおいて、船尾から沈没した。
しかしながら、りつちもんど丸が、ときわ丸と衝突する前に、二〇七度の針路から二九二度に右回頭をした事実はこれを認め難く、むしろ、原告は、二〇七度の針路で航行中、午前一時四分少し前ごろに、りつちもんど丸の左舷船首方向にときわ丸の白緑二燈を認め、同時四分ごろ、左舷船首約七度一、五〇〇メートル余りになつたころ、長音一回を吹鳴したものと認めるべきことは、前叙のとおりであつて、また、ときわ丸が、午前一時三分から同時四分少し前ごろまでの間に、北東微北の針路から北微東四分の一東に転じ、同時四分ごろには、右舷船首約一二・五度およそ一、五〇〇メートル余りに、主として紅燈を示して来航するりつちもんど丸を認める地点に進出したものと認めるべきことも、前に判示したとおりである。
そして、上記各認定の事実に、前顕甲第一号証の五、六同第二号証の一一、同号証の一四、同号証の一六、同第六号証の五、同号証の七、同第一一号証の二、同号証の二四、乙第三一号証、いずれも成立に争いのない甲第一四号証、同第一六号証、同第一九、二〇号証の各記載、証人青野誠一、同元良誠三、同磯部孝、同森久保敏行、同谷初蔵(第二回)の各証言、原告本人尋問の結果、鑑定人元良誠三、同磯部孝の各鑑定の結果、鑑定証人森久保敏行の供述を併せ考えると、次の事実を認めることができる。すなわち、原告は、二〇七度の針路で進航中ときわ丸の燈火を認め、午前一時四分ごろ長音一回を吹鳴し、引き続き同船を注視していたが、その後も方位が変らず、衝突の危険があつたので、同時五分半ごろ、微速力前進、停止、右舵一杯を命じ、短音一回を吹鳴し、ついで全速力後退に令したが、その直後ときわ丸は、船首方向にやや方位を移動しながら、りつちもんど丸の船首の死角に入り、僅かにときわ丸の投ずる燈火が船首に反映するのを認めたが、同時六分過ぎごろ、和田岬燈台から一八八度半四、九五〇メートルばかりのところにおいて、二二六度(コースレコード上同時二一分過ぎ、二二七度)に向いたりつちもんど丸の船首は、ときわ丸の右舷側船尾から四メートルばかり前方に、前方からほぼ七五度の角度で衝突し、フンワリと乗り上げるような衝激を感じた。
また、成立に争いのない甲第二一、二二号証に証人杉本安政の証言を併せ考えると、ときわ丸は、衝突時に左舵一杯をとつていたことが認められ、前顕甲第六号証の七の記載によれば、太居一男は、衝突の少し前舵輪を左に廻していたことが認められるから、これらの事実に、上記認定の各事実、前顕甲第一号証の一〇、同第六号証の七、乙第三一号証、いずれも成立に争いのない甲第二号証の一八、同第三号証の三七、乙第一九号証の一、二、証人三原義春の証言を併せ考えると、次の事実を認めることができる。すなわち、ときわ丸の船橋にあつて、航海士太居一男と操舵を交替し見張についていた三原義春は、午前一時五分過ぎごろ、右舷船首約一二度半およそ七五〇メートルばかりにりつちもんど丸の白白紅三燈をはじめて認め、太居にこれを報告したが、同人はうなずいたのみで転舵する模様がないので、不安を感じ、かわるかかわるかと呼びかけているうち、相手船がさらに接近し、短音一回を吹鳴するのを聞いた。太居は、直ちに、投光器を点滅するように命じ、三原はこれを点滅しながら、自船の船尾方向を覗き、相手船との距離を按じていたところ、太居は左舵をとりながら、今度は逆に三原に向かつて、かわるかかわるかと問いかけていたが、既に至近距離に迫つていた両船は、ときわ丸が三三一度ばかりに向いたころ、遂に前記のごとく衝突し、ときわ丸は船尾を圧壊され、和田岬燈台から南微西四分の三西四、三八〇メートルないし一九六度半四、三〇〇メートルばかりの附近において沈没するに至つた。
右認定に抵触する証人鮫島直人、同山内保文、同谷初蔵(第一回)の各証言、証人能丸喜義、同青野誠一及び同三原義春の各証言並びに原告本人尋問の結果の各一部、鑑定人鮫島直人、同山内保文、同谷初蔵の各鑑定の結果は、次に述べるごとく、いずれも採用することができず、他に右認定を覆えして被告主張の事実を認めるに足りる証拠は存しないから、この点に関する被告の主張は採用し難く、従つて、前示裁決の判断も首肯し難いとなさざるを得ない。なお、一、二の点について詳述すれば、次のとおりである。
(1) コースレコードにおける衝突点
前顕甲第二号証の一六、成立に争いのない乙第一七号証の一ないし三によれば、りつちもんど丸使用のコースレコード上、午前一時二一分過ぎ二二七度、同時二三分半ごろ二九二度、及び同時二五分ごろ二九七度のところに、それぞれコースペンの描線の乱れにより生じた異常点があることが認められる。前記鑑定人元良誠三の鑑定の結果及び証人元良誠三の証言によれば、右のうち、二二七度の異常点は、角速度の急激な変化が認められ、約二〇秒間回頭を停止した跡が見られるのに反し、他の異常点は、機関操作、舵角の変化の併用等に対応して得ることのできる変化であるから、三箇の異常点のうち、衝突点を求めるとすれば二二七度のところであることが認められ、前顕甲第一四号証によれば、コースレコード上、右舵角三五度相当の操舵に対応して回頭中、二一分一七秒から四二秒ごろまで、ほぼ二二七度ないし二二八度の針路を保持していること、前顕甲第一九、二〇号証によれば、右二二七度の乱れは衝突して暫時接触したことによつて生じたものであることが、それぞれ認められる。もつとも、鑑定人鮫島直人の鑑定の結果及び証人鮫島直人の証言によれば、右のうち、一時二三分半ごろ二九二度の点及び同時二五分ごろ二九七度の点は、個々の乱れは微少であるが、二分間を通じて、一連のものとしてみれば、乱れが大きく、外力などによる影響を受けたものとみられるとし、また、鑑定人山内保文、同谷初蔵の各鑑定の結果並びに証人山内保文、同谷初蔵(第一、二回)の各証言、成立に争いのない乙第三九号証によれば、りつちもんど丸が、舵角三五度で右回頭中に、ときわ丸の右舷側船尾から四メートルの場所に、前方から約七五度の角度で衝突した場合、両船は数秒間に離脱し、りつちもんど丸の回頭が二〇秒間停止することはなく、却つて、その角速度は一時的に増加され、りつちもんど丸のコースレコードに衝突の点が現われることはないとしている。しかしながら、これらの各鑑定の結果及び各証言は、いずれも、コースレコードを機械的精密な方法によらないで調査した結果の判断、又は数量的な計数に基づく抽象的な判断であつて、前記りつちもんど丸の針路、操舵状況に照してにわかに採用し難いところであるばかりでなく、それ自体必ずしも二二七度のところで衝突が起こつたことを否定するものではなく、前顕甲第六号証の五、同号証の七及び同第一一号証の二四によれば、りつちもんど丸にはフンワリと乗り上げるような、或いはタグボートで押したような衝激があつたことが認められ、記録紙読取の誤差もあり得ることであるから、現実にりつちもんど丸が二〇秒ないし二五秒の間回頭を停止したかどうかは別としても、これらの衝激が全くコースレコード上に現われることがないとするのも断定に過ぎると解される。従つて、これらの各鑑定の結果及び各証言をもつて、コースレコード上二二七度のところで衝突が起こつたものではなく、二九二度のところで衝突が起こつたものであるとしなければならないものとは解し得ない。
(2) 衝突地点とときわ丸の沈没地点
ときわ丸の沈没地点については、前顕甲第二号証の一八及び乙第一九号証の一、二によれば、海難審判庁理事官の測定による和田岬燈台から南微西四分の三西四、三八〇メートルと、海上保安官の測定による和田岬燈台から一九六度三〇分四、三〇〇メートルとの二点があり、そのいずれをとるかについては、両者の相違を生じた理由が判然としないから、にわかに決し難いところであつて、ときわ丸の沈没地点は右両地点の附近と認めるほかはない。ところで、右沈没地点は前示衝突地点からおよそ六八〇メートルないし九一五メートルばかりの距離となるところ、(イ)前顕甲第一六号証によれば、菱田敏男の鑑定の結果として、ときわ丸が船尾を海底に着け船首を持ち上げ約三〇度の極大傾斜に至るまでの時間は衝突後約二・五分ないし三分、その後低船首楼甲板を水面下に没するまでの時間は衝突後七分ないし七・五分と推定されるとされており、(ロ)鑑定人山内保文の鑑定の結果及び証人山内保文の証言によれば、りつちもんど丸がときわ丸にほぼ直角に衝突した場合、ときわ丸の前進速度は一瞬に低下し(もとの約六割)、前進惰力は急速に低下し、同時にときわ丸の重心まわりにりつちもんど丸の進行方向と逆の方向に回頭角速度を生ずるが、時間とともに減少する。衝突地点からの距離は浸水の波及び時間、沈没に至るまでの時間によつて異なつてくるが、恐らく五〇〇メートル以下であろうと思われる。ときわ丸が約一〇度左転したとき、りつちもんど丸が前方から八〇度の角度で衝突し、約一〇分後に沈没した場合も大差はないとされており、また、(ハ)鑑定人谷初蔵の鑑定の結果及び証人谷初蔵の証言(第一回)によれば、りつちもんど丸がときわ丸に直角に衝突した場合、ときわ丸の前進速力は二―三ノツト程度に減少し、同時に少なくとも三〇度以上右舷に船首を振ると考えられるから、これによりさらに前進速力は減少すると考えられる。この場合は、仮定計算によれば、約七分間に二〇〇メートル程度惰行することになるが、実際は、たかだか四分の一程度であろう。りつちもんど丸が約一〇度左転したときわ丸に前方から八〇度の角度で衝突した場合は、仮定計算によると惰行距離は約一〇分間に右方約三六度の方向へ二五〇メートル程度となるが、これもたかだか四分の一程度と推定される。ときわ丸の惰走距離が七―八〇〇メートルに上ることは考えられない、としている。従つて、これらの各証拠によれば、ときわ丸が衝突地点から沈没地点まで惰行したとすることは不可能であるがごとくである。しかしながら、右(イ)は五〇分の一の模型船による実験結果の平均値に基づく推論であり、(ロ)及び(ハ)は、いずれも推定される数量に基づく計算値であるから、諸量の推定いかんによつては多少の差異を生ずることは当然であつて、その結論相互の間においても相異が見られるのも已むを得ないところといわなければならない。成立に争いのない甲第二四号証によつても、衝突時間経過中にときわ丸はりつちもんど丸の力学的拘束を受けたものと推定することができ、その拘束下になんらかの対地速度をもつたものと推定されるが、これを離脱したのち沈没に至るまでの水平面内の運動については、推論できないとされており、上記各鑑定の結果及び各証言も、他の合理的な証拠によつて認められる事実に基づいて、異なる結論を導き出すことまでも、否定するものとは解し難い。
ときわ丸は、船尾から四メートルの右舷側に衝突され、船尾を圧壊されたが、他の部分に重大な損傷はなく、この破口から順次浸水したものである。前顕甲第一号証の五、成立に争いのない同第三号証の一二三によれば、当時天候は半晴で北東の至軽風が吹き、潮候は下げ潮の末期で附近では微弱な北西流があつたことが認められるから、沈没まで風波の影響を受けることも殆んどなかつたものと認められる。いずれも成立に争いのない甲第一号証の二四(乙第一四号証に同じ)、同号証の二六、同号証の二八、乙第一二号証ないし第一四号証(いずれも、理事官の船客に対する質問調書)、甲第一〇号証の二(第一審における玉谷昭に対する質問調書)、同号証の四(第一審における虫本敏春に対する質問調書)並びに証人玉谷昭の証言によれば、ときわ丸に乗船していた船客は、同船沈没の模様についていろいろに述べているところ、当時船客はいずれも船室内で就寝中であつたのであるから、危急の場合において正確な時間の感覚を失つていることは当然予想されるところであるし、その各自が体験した事実についても、それが衝突後沈没までの間のどのような時点のものであるか、ときわ丸に行き足があつたかどうかなどの点に関しては必ずしも明らかでなく、むしろときわ丸の行き足が止まり水没する直前の頃から水中に投げ出された後のことに関する部分が多いと解されるので、それ丈けで沈没までの経過時間、惰航距離を判定することはできないけれども、右甲第一〇号証の四によれば、ときわ丸の一等客室内の右舷側上段の寝台で就寝中であつた船客虫本敏春は、衝激で飛び起き、いつたん右舷側甲板に出て様子を見たが、危険がそれ程切迫しているとも見えないので荷物をとりに引き返し、その後も三回程繰り返して船室内に引き返した。さらにその後短艇の繋縛を解くのに手間どつているのでこれを手伝い、浸水のために浮いて来た短艇を自分が押し出し、自分も水に飛込んで短艇に引き上げて貰つたが、皆の者を鎮め、兎も角短艇を動かして本船から二〇メートルぐらいも離れたころに、本船が水中に没するのを見たと述べており、これによれば、ときわ丸が衝突してから沈没するまで、かなりの時間が経過していると認められる。また、前記鑑定人谷初蔵の鑑定の結果によれば、ときわ丸は、りつちもんど丸と接触している間、同船と一体となつて運動することが認められるから、離脱の際には、りつちもんど丸の回頭運動によつて船首方向へ押し出す力を加えられるものとも解される。従つて、一時間八海里半の速力で進行して来たときわ丸は、船尾部を圧壊されても、なお、相当の惰航する力を有したものと認められるし、前顕甲第一号証の五、同第六号証の五及び同号証の七によれば、衝突の直後、りつちもんど丸の右舷側に姿を現わしたときわ丸は、左舷に大きく傾斜していたが、なお行き足があり、りつちもんど丸の船尾方向に急速に移動して行つたことが認められる。前顕甲第一号証の九、一〇、同号証の一四、一五、同第六号証の五、同号証の七、同第七号証の四、同第八号証の四及び乙第三一号証並びに成立に争いのない乙第三〇号証(第一審における審判調書)中のこの点に関する右と抵触する各供述記載部分、証人三原義春、同加藤恵美夫、同谷本昭の右と抵触する各証言部分は、右各証拠に照してにわかに措信することができない。従つて、これらの諸事実を併せて考えると、前記各鑑定の結果及び各証言は、直ちにそのまま採用することができないところであつて、ときわ丸は、ほぼ前記認定の距離をゆるやかに惰航したものと認めるほかはない。
二、衝突の原因及び原告の責任
上記の次第であるから、りつちもんど丸とときわ丸との航法関係について、原告が、夜間神戸港沖合を航行中、他船と互いに右舷を対して無難に航過できる態勢にある場合、見張不十分のため、他船の来航に気付かず、その前路に向けて転舵進出したものとし、本件海難は、主として原告の運航に関する職務上の過失に基因するとする被告の主張は、とうてい首肯し難いところといわざるを得ない。却つて、上記判示によれば、両船は、海上衝突予防法第一九条にいわゆる横切関係が成立し、ときわ丸は、りつちもんど丸を右舷側に見る避航義務船であつたものと認めるべき余地が大きい。もとより、このように解したとしても、上記のとおり、原告にも同法第二一条但書の規定による協力動作としての操船指揮が適切を欠き、臨機の措置が緩漫に失した過失の存することが窺われ、右過失も本件衝突の一因をなしたものと認められないではないが、右のごとく、ときわ丸の操舵にあたつていた太居一男が避航義務を尽さなかつたことに比べて考えれば、後者の責任の方が大きいといわざるを得ない。従つて、右衝突の主たる原因が原告の運航に関する職務上の過失にありとし、これを前提とする懲戒の裁決は、後記判示のような救助行為についての原告の過失を参酌しても、失当であるといわなければならない。
三、原告の救助行為
海技従業者が、自船と衝突して沈没した相手船の乗客、乗組員に対する救助行為に関し過失があり、これに因つてその死傷を生ぜしめた場合には、海難審判法第二条第二号に該当し、同法第四条第二項の規定による懲戒の対象となるものと解すべきところ、前示ときわ丸の乗客及び乗組員に対する原告の救助行為に関して、被告の主張するところは、本件裁決によれば、次のとおりである。すなわち、原告は、衝突するや直ちに、機関を停止して船橋の右端に出たところ、右舷側二―三〇メートル隔てたところに、電燈が消え、船尾が低くなり、左舷に傾斜したときわ丸の船影を認め、人の叫び声を聞き、沈没のおそれがあることを知つたが、相手船は本船の舷側に沿い船尾の方に過ぎ去つて行つた。そこで、原告は相手船に近づこうとしたが、機関を全速力後退にかけてもなお行き足が大きく、衝突地点まで引き返してくるのに時間がかかり、かつ、万一漂流者などがあればこれに危害を加える懸念があり、右舷にひとまわりして衝突地点に引き返す方がよいと考え、機関を微速力前進にかけ、総員起こし、救命艇用意を命じ、右舵を取つたまま続行した。自室で休息中の三等航海士能丸喜義及び一等航海士藤原修は、汽笛を聞くとともに機関の運転に異常を感じ、不審を抱いて直ちに昇橋したが、原告は、すみやかに、両航海士に、レーダーにより他船のゆくえを追跡看視させたり、コンパスやレーダーにより船位を確認させたり、あるいは船橋に備えつけの救命焔を投下させたりせず、単に探照燈や投光器を点滅し、海面を照射させながら、機関を微速前進、あるいは停止に使用し、舵を中央に戻したり、右舵をとつたりして進行し、ひとまわりしてすみやかに相手船に近ずこうとする当初の意図にそわない行動をとり、同時一八分第五管区海上保安本部あて「午前一時七分ごろ北緯三四度三七分五東経一三五度一〇分二にて機帆船らしきものと衝突し、附近海面を捜索中」の旨を打電し、同時四九分緊急通信に切り替え、同部と連絡をとりながら捜索を続けたが、相手船や漂流物を発見するなど、手がかりがつかめないまま、同時三二分和田岬から一九二度二、四〇〇メートルばかりの地点に投錨した。青野二等航海士は、原告の命を受けて、投錨後直ちに第一号艇を降下し、投錨地点の南方附近を一時間余にわたり捜索したが、何物も発見できずに引き返し、その後も交替して引き続き午前五時半ごろまで捜索したが、りつちもんど丸側では、遂に何物も発見できず、捜索は徒労に終つた、というのである。右の事実は、原告が衝突の結果相手船が沈没するおそれがあることを知り、右舷にひとまわりして衝突地点に引き返えそうと考えたとの点を除き、前顕甲第一号証の五、六、同号証の九、一〇及び同号証の一四、一五、乙第一二号証ないし第一四号証、同第三四号証、甲第三号証の一五五、一五六、いずれも成立に争いのない乙第一一号証(理事官の伝法政市に対する質問調書、甲第一号証の一三に同じ)、同第一八号証及び同第二二号証ないし第二五号証(いずれも、第一審における審判調書、甲第六号証の四ないし七、同第七号証の一ないし四に同じ)を綜合して、これを認めるに十分であつて、前顕甲第六号証の五及び乙第三一号証に原告本人尋問の結果を併せ考えると、原告は、ときわ丸になお行き足があり、直ちに沈没することはないと思い、右回頭を続けることによつて、ときわ丸の進出方向に進航し、同船に行き合うことができるかも知れないとの考えもあつたことを認めることができるけれども、前記のとおり、ときわ丸は、衝突と同時に機関が停止し、燈火も消えていたのであるから、自力で航行する能力を失つていたことは明らかであつて、甲種船長の海技免状を有する原告としては、この事実を認識し得べかりしか、少くともその可能性を十分考うべきであつたのに、原告が右のように判断したことは、軽軽に失したとの譏りを免れず、また、右のように考えて右回頭を続けた結果、相手船に行き合うことができなかつた場合にも、できるだけ衝突地点附近に近づき、その安否の確認に努力すべき責務があつたものといわなければならない。従つて、上記のとおり、原告が、ときわ丸の船影を見失つた場合、すみやかにレーダーによりそのゆくえを追跡看視したり、船位を確認したり、救命焔を投下したりして、救助活動に万全を期すべきであつたのに、これを怠り、前記のごとく投錨して衝突現場に引き返す措置が当を得なかつたことは、原告の職務上の過失というべきであつて、本件海難の一因をなすものといわなければならない。レーダーは、海面上の近距離においては十分な効果を上げ得ない場合が多いとしても、全く効果を発揮しないものと断ずる資料はないのであるから、原告が主張するように、相手船の動静を追跡捕捉するために見張員を多数たて、双眼鏡をもつて探索に努力したとしても、それをもつて万全を期したものということができないことはもちろんであつて、それによつて相手船の燈火を認めることができなかつた以上、レーダーを使用したならば、早期にこれを発見し得たかも知れないということができるし、また、衝突地点の測定確認、救命焔の投下などについても、衝突時において、自力航行能力を失つている相手船のゆくえを見失い、その動静、安否を把握することができない場合にとるべき万全の措置の一であるというべく、前記のごとく衝突地点即沈没地点と認め難い本件の場合においても、上記の各種万全の措置を講じたならば、死傷の数を減少し得ることが期待し得たものということができる。従つて、前顕甲第一号証の九、一〇、同号証の一四、一五、乙第一一号証ないし第一四号証、同第二二号証ないし第二五号証、前顕甲第一〇号証の二及び同号証の四、証人玉谷昭の証言を併せ考えると、原告の主張するように、ときわ丸においても船客の避難誘導措置に過失があり、有効に救命焔を使用しなかつたことを認めることができるけれども、右過失を参酌しても、原告が、上記事実関係のもとにおいて、前記措置に出でなかつたことは、運航に関し職務上の過失があつたものと認めざるを得ない。してみれば、この点に関する被告の主張は、結局正当であつて、原告の主張は理由がない。
第三結論
上記の次第で、原因裁決の取消を求める原告の訴えの部分は、不適法であるから却下を免れないが、懲戒裁決の取消を求める請求部分については、前記衝突の原因が、主として原告の運航に関する職務上の過失に存することを前提として、原告の甲種船長の業務を三箇月停止する懲戒に処した裁決は誤まりというほかなく、右誤まりは裁決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、これが取消を求める部分の原告の請求は理由があり、海難審判法第五六条第一項によりこれを取消さなければならない。
よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条但書を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 村松俊夫 江尻美雄一 兼築義春)